新海誠作品への一視点――匿名性をめぐって 先月はじめ、小海町高原美術館で
先月はじめ、帰省のついでに長野県小海町高原美術館で新海誠監督の「『君の名は。』展」に行ってみた。
そこの売店で買ったのが、『ユリイカ9月号』で、この手の本としては珍しく第4刷!であった。
わたしが新海作品についてある種の違和感を感じた部分が、そのまま、新海作品の特質なのだという趣旨の評論が掲載されていた。
(引用開始)
私たちが私たちでいるままでカタルシスを得ること――新海作品の抽象度の高さと隙間が、さらにそのための後押しをする。新海作品における登場人物たちは肉感が無い。初期のアマチュアめいた作画でも、近作において手練のアニメーターが担当したとしても、事態はあまり変わらない。キャラクターたちは記号のようで、見終わったあとに顔の印象が残らない。登場人物たちの匿名化は、私たちに付け入る隙を与える。特定のかけがえない誰かというよりは人間の形をした容れ物に近いがゆえに、彼ら彼女らの物語は、私たちのものでもあるという感覚を生む。自らの人生の環境に近似した場所でキャラクターたちが生きるとき、見覚えのある感情を抱くその登場人物たちに、私たちは自分自身を容易にシンクロさせることができる。
新海作品は、物語自体にも隙間がある。『ほしのこえ』におけるロボットアニメとしての設定の脆さを指摘する人も多いが、脆いことこそが重要なのである。『星を追う子ども』もオリジネーターであってはならず、ジブリっぽいという立ち位置こそが必要になる。これらはあくまで、私たちがよく見知った寂しさや悲しみを引き立て、そして改めて演じるための舞台なのだから。
新海作品は物語自体をも容れ物のように抽象化し、個別の強度をむしろ弱める。それによって生まれるのは、やはり、私たちがその隙をついて自分自身をそこに代入する余地である。そうすることで、その物語を衣服のように身にまとうことができる可能性が生まれる。観光地にある顔はめパネルのように、登場人物たちの物語をつかの間に生きやすくなる。
隙間のある表現が、スクリーンの内側と外側、そして物語世界の内側と外側をずいぶん柔らかく浸透しあうことを許すとき登場人物たちの物語は私たちのものとなり、登場人物たちもまた、互いに呼応しあう生を生きる。作品のなかの彼は彼女でもあり、彼女は彼でもあり、そして同時に私たちでもある。『君の名は。』が人間同士の入れ替わる物語であることは示唆的だ。瀧と三葉は片割れ同士で、互いが互いの一部である。『彼女と彼女の猫』も、「彼女」と「猫」そして両者の関係の外にある誰かだけで物語は成立する。その空白はやはり、私たち自身の代入を許すだろう。
新海作品が面白いのは、登場人物たちの影の薄さと交換可能性が、そっくりそのまま、私たちの存在の批評になっているように思えることである。私たちの個は、いまや漂白されたのっぺらぼうのようなものになっていて、登場人物たちと同じように、私たちもまた、実体を失った、大型の容れ物のようなものなのではないか。新海作品は、そんな私たちの日常と人生を、そっくりそのまま救うためにある。
巨大な私たちの不定形な塊が寂しさを抱えて、自分自身の人生に確信と強さを与えてくれる確固たる容れ物・欠けたる何かを求めてさまよっている……新海作品におけるこの人間観は、実は、様々な国のインディペンデント・アニメーション作家たちによって共有されているものでもある。アニメーションの歴史を振り返れば、インディペンデント作品や実験作品は、作家個人の天才性に由来する個性的な世界を描くことに長けていた。しかしいま、それは変わりつつある。ほかでもない「私たち」の物語が語られつつあるのだ。それも、匿名的で、ボンヤリとした存在としての「私たち」 の。
(引用終了)「この夢のような世界」土居伸彰
同じところを見ているにもかかわらず、わたしと違い肯定的な評価であったのだ。
先の美術館で、冒頭では新海は「とりかへばや物語」に想を得たという趣旨の展示があったのだが、なるほど、そこでも〝取り替え可能な私〟なのか、と反対側から見てみる必要に迫られたのだ。
「ああ、まだまだだなあ、」と反省する。元来アニメーションとはそういうものであったはずだ(決してそれだけではないが。)。
思い起こせば『パラサイト・イヴ』(瀬名秀明)における、人間はDNAを運ぶ乗り物という指摘もまた強烈なものがあった。
反対側から物事を見る。これは大切なことだ。
そこの売店で買ったのが、『ユリイカ9月号』で、この手の本としては珍しく第4刷!であった。
わたしが新海作品についてある種の違和感を感じた部分が、そのまま、新海作品の特質なのだという趣旨の評論が掲載されていた。
(引用開始)
私たちが私たちでいるままでカタルシスを得ること――新海作品の抽象度の高さと隙間が、さらにそのための後押しをする。新海作品における登場人物たちは肉感が無い。初期のアマチュアめいた作画でも、近作において手練のアニメーターが担当したとしても、事態はあまり変わらない。キャラクターたちは記号のようで、見終わったあとに顔の印象が残らない。登場人物たちの匿名化は、私たちに付け入る隙を与える。特定のかけがえない誰かというよりは人間の形をした容れ物に近いがゆえに、彼ら彼女らの物語は、私たちのものでもあるという感覚を生む。自らの人生の環境に近似した場所でキャラクターたちが生きるとき、見覚えのある感情を抱くその登場人物たちに、私たちは自分自身を容易にシンクロさせることができる。
新海作品は、物語自体にも隙間がある。『ほしのこえ』におけるロボットアニメとしての設定の脆さを指摘する人も多いが、脆いことこそが重要なのである。『星を追う子ども』もオリジネーターであってはならず、ジブリっぽいという立ち位置こそが必要になる。これらはあくまで、私たちがよく見知った寂しさや悲しみを引き立て、そして改めて演じるための舞台なのだから。
新海作品は物語自体をも容れ物のように抽象化し、個別の強度をむしろ弱める。それによって生まれるのは、やはり、私たちがその隙をついて自分自身をそこに代入する余地である。そうすることで、その物語を衣服のように身にまとうことができる可能性が生まれる。観光地にある顔はめパネルのように、登場人物たちの物語をつかの間に生きやすくなる。
隙間のある表現が、スクリーンの内側と外側、そして物語世界の内側と外側をずいぶん柔らかく浸透しあうことを許すとき登場人物たちの物語は私たちのものとなり、登場人物たちもまた、互いに呼応しあう生を生きる。作品のなかの彼は彼女でもあり、彼女は彼でもあり、そして同時に私たちでもある。『君の名は。』が人間同士の入れ替わる物語であることは示唆的だ。瀧と三葉は片割れ同士で、互いが互いの一部である。『彼女と彼女の猫』も、「彼女」と「猫」そして両者の関係の外にある誰かだけで物語は成立する。その空白はやはり、私たち自身の代入を許すだろう。
新海作品が面白いのは、登場人物たちの影の薄さと交換可能性が、そっくりそのまま、私たちの存在の批評になっているように思えることである。私たちの個は、いまや漂白されたのっぺらぼうのようなものになっていて、登場人物たちと同じように、私たちもまた、実体を失った、大型の容れ物のようなものなのではないか。新海作品は、そんな私たちの日常と人生を、そっくりそのまま救うためにある。
巨大な私たちの不定形な塊が寂しさを抱えて、自分自身の人生に確信と強さを与えてくれる確固たる容れ物・欠けたる何かを求めてさまよっている……新海作品におけるこの人間観は、実は、様々な国のインディペンデント・アニメーション作家たちによって共有されているものでもある。アニメーションの歴史を振り返れば、インディペンデント作品や実験作品は、作家個人の天才性に由来する個性的な世界を描くことに長けていた。しかしいま、それは変わりつつある。ほかでもない「私たち」の物語が語られつつあるのだ。それも、匿名的で、ボンヤリとした存在としての「私たち」 の。
(引用終了)「この夢のような世界」土居伸彰
同じところを見ているにもかかわらず、わたしと違い肯定的な評価であったのだ。
先の美術館で、冒頭では新海は「とりかへばや物語」に想を得たという趣旨の展示があったのだが、なるほど、そこでも〝取り替え可能な私〟なのか、と反対側から見てみる必要に迫られたのだ。
「ああ、まだまだだなあ、」と反省する。元来アニメーションとはそういうものであったはずだ(決してそれだけではないが。)。
思い起こせば『パラサイト・イヴ』(瀬名秀明)における、人間はDNAを運ぶ乗り物という指摘もまた強烈なものがあった。
反対側から物事を見る。これは大切なことだ。
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